カスハラ(カスタマーハラスメント)とは、顧客・取引先などから受ける著しい迷惑行為のうち、要求の内容や手段が社会通念上不相当であり、労働者の就業環境を害するものを指します。
厚生労働省の調査によると、過去3年間にカスハラ相談があった企業は全体の27.9%にのぼり増加傾向にあります。サービス業では労働者の46.8%(UAゼンセン調査)が被害経験を持ち、精神障害による労災認定は2024年度に108件と過去最多を更新しました。
2026年10月には改正労働施策総合推進法が施行され、全企業にカスハラ対策が措置義務化されます。本記事では、カスハラの定義・具体例・クレームとの違いから、2026年10月に向けた企業の実務対応、被害を受けた従業員が取るべき行動まで、一貫して解説します。
カスハラとは?意味と厚労省の正式定義
カスハラという言葉はここ数年で急速に普及しましたが、その定義や判断基準は案外知られていません。
このセクションでは、言葉の成り立ちから厚労省の公式定義、社会問題化した背景まで体系的に整理します。カスハラの本質を正確に理解することが、企業の対策設計にも、従業員自身の自己防衛にも欠かせない第一歩です。
「カスタマーハラスメント」という言葉の由来と広がり
カスタマーハラスメントとは、「カスタマー(customer=顧客)」と「ハラスメント(harassment=嫌がらせ・困らせる行為)」を組み合わせた和製英語です。英語圏では「customer abuse(顧客による虐待)」や「aggressive customer behavior(攻撃的な顧客行動)」と表現されることが多く、日本独自の社会問題として形成された概念といえます。
この言葉が広く認知されるようになったのは2010年代後半のことです。2018年頃から流通・サービス業の労働組合を中心に問題提起が始まり、2020年に厚生労働省が「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」を公表したことで、一般社会にも定着しました。
略して「カスハラ」と呼ばれることが多く、「モンスタークレーマー」や「悪質クレーム」とほぼ同義で使われることもありますが、厚労省の定義では顧客だけでなく取引先・患者・利用者・保護者・地域住民など、業務上の相手方全般が対象に含まれます。
背景には、サービス業の多様化によって顧客と従業員が直接接触する機会が増えたこと、SNSの普及によって「拡散するぞ」という脅しが現実的な威力を持つようになったことがあります。また、長年日本のサービス文化に根づいてきた「お客様は神様」という意識が、一部の顧客による過剰な要求を正当化する土壌を生んだとも指摘されています。
厚労省が定めるカスハラの正式定義と3つの要件
厚生労働省の定義によれば、カスハラとは下記のことを指します。
「顧客等からのクレーム・言動のうち、当該クレーム・言動の要求の内容の妥当性に照らして、当該要求を実現するための手段・態様が社会通念上不相当なものであって、当該手段・態様により、労働者の就業環境が害されるもの」(厚労省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」2022年改訂版)
この定義を分解すると、カスハラの成立には次の3つの要件がすべて満たされる必要があります。
要求内容が妥当でない、または妥当であっても手段・態様が社会通念上不相当である
たとえば商品に欠陥があった場合の返品要求は要求内容として妥当ですが、店員を大声で怒鳴り続けたり、担当者の個人情報を調べて自宅に押しかけたりする行為は、手段・態様の点でカスハラに該当します。要求内容そのものが不当な場合(根拠のない損害賠償の要求など)は、たとえ穏やかな言い方であってもカスハラになりえます。
業務上の相手方(顧客・取引先・患者・利用者等)から受けるものである
同僚や上司から受ける場合はパワーハラスメント、性的な言動であればセクシュアルハラスメントとして扱われます。カスハラはあくまで「業務上対応すべき相手方」からの行為が対象です。
労働者の就業環境が害される
一度の軽微な行為では足りず、その行為によって従業員が職場環境において精神的・身体的に悪影響を受けることが必要です。判断にあたっては「平均的な労働者が同じ状況に置かれた場合に就業環境が害されたと感じるか」という客観的な基準が用いられます。
この3要件の構造を理解しておくと、「これはカスハラか、それとも正当なクレームか」を現場で判断する際の軸になります。
カスハラが社会問題化した背景
カスハラが急速に深刻化した背景には、複数の社会的変化が重なっています。
第一に、消費者の権利意識の高まりとサービスへの期待値の上昇があります。
インターネットの普及によって、利用者が商品やサービスの価格・品質を横断比較できるようになり、「お金を払っているのだから完璧なサービスを受けて当然」という意識が一部で強まりました。特に日本のサービス水準は世界的に見ても高く、それが「過剰サービスを当然と感じる」顧客行動につながりやすい構造になっています。
第二に、SNSの普及による「炎上の脅し」の威力増大です。スマートフォンで録音・録画した動画をSNSに投稿すれば、一夜にして企業や個人に多大なダメージを与えることができる時代になりました。「SNSに投稿するぞ」「ネットに晒すぞ」という言葉が、顧客対応の交渉において現実的な圧力として機能するようになっています。
第三に、コロナ禍以降の経済的・精神的ストレスの増大があります。生活環境の悪化や将来不安が、外部に向けた攻撃行動として顕れるケースが各種調査で報告されており、カスハラ相談件数は2020年以降特に増加傾向にあります。
第四に、企業側の「お客様優先」文化の固定化です。「クレームを言う顧客はうるさいのでとにかく言うことを聞いて帰ってもらえ」という組織文化が残っている企業では、個別の従業員がカスハラを一人で抱え込む構造が生まれやすくなっています。これが結果として被害の慢性化・悪化・従業員の離職につながっています。
カスハラとクレームの違いとは?グレーゾーンの判断基準
カスハラ対応で現場が最も困るのが「これはカスハラなのか、それとも正当なクレームなのか」という判断です。この線引きを誤ると、正当な苦情を握りつぶして顧客満足を損なうリスクと、カスハラを「クレーム対応」として無限に受け続けて従業員を疲弊させるリスクの両方が生じます。ここでは2つの判断軸と、現場で使えるグレーゾーンの見極め方を整理します。
「正当なクレーム」と「カスハラ」を分ける2つの軸
クレームとカスハラの違いを整理する際に最も有効なのが、縦軸に「要求内容の妥当性」、横軸に「手段・態様の相当性」を置いた2軸マトリクスです。

要求内容の妥当性とは
顧客が求めていることに客観的な根拠があるかどうかです。「購入した商品に欠陥があったので交換してほしい」「案内された内容と実際のサービスが異なるので差額を返金してほしい」といった要求は、要求内容として妥当です。
一方、「気に入らなかったから全額返金しろ」「謝罪文を社長名で出せ」「担当者を解雇しろ」といった要求は、客観的根拠に乏しく妥当性が低いといえます。
手段・態様の相当性とは
その要求を伝える方法が社会通念上許容できる範囲かどうかです。静かに、かつ事実を整理しながら申し伝える行為は相当な手段ですが、大声で怒鳴る、長時間にわたって店舗や電話口を占拠する、人格を否定する言葉を浴びせる、といった行為は相当性を逸脱しています。
この2軸で整理すると、4つの象限が生まれます。要求が妥当で手段も相当であれば「正当なクレーム」として誠実に対応すべきです。要求は妥当だが手段が不相当な場合は「内容に対しては誠実に、手段に対してはやめるよう毅然と求める」という二段構えの対応が必要になります。
要求が不当で手段も不相当な場合は、これがカスハラの典型例であり、要求には応じず適切な方法(警告・退去要請・警察への通報等)で対処します。
要求が不当でも手段が相当な場合は、内容の不当性を丁寧に説明しながら断るという対応が基本です。
グレーゾーン事例:これはカスハラに該当する?しない?
現場では「どちらとも取れる」グレーゾーンの行為が最も多く、判断に迷います。以下に典型的なグレーゾーン事例を整理します。
カスハラに該当しうる事例
「1時間以上にわたって電話口でクレームを言い続け、業務が止まった」は、要求内容の妥当性に関係なく、長時間の業務妨害として手段の相当性を逸脱しています。
「SNSに投稿するぞ」という言葉は、内容によっては脅迫罪・強要罪に当たりえます。「お前は使えない、頭がおかしい」といった人格否定の言動は、要求の内容とは切り離してカスハラ(場合によっては侮辱罪)に該当します。
カスハラに該当しない事例
「大きな声で不満を訴えた」だけでは、声の大きさだけをもってカスハラとは断定できません。感情的になっている状態でのクレームは、内容が妥当であれば正当なクレームです。
「何度も電話してくる」も、回数だけでは判断できません。問い合わせの内容が毎回異なる正当な疑問であれば、繰り返しの連絡自体はカスハラではありません。
判断が分かれる事例
「強い口調で早急な対応を求める」は、業界・状況・程度によってクレームともカスハラとも取れます。
命に関わるサービス(医療・食品等)での不備に対して感情的になるケースは、感情的表現があっても要求に合理性があれば正当なクレームとして向き合う余地があります。
判断が難しい場面での実務的な見極め方
グレーゾーンに直面した際、現場の従業員が一人で判断しようとすることが最も危険です。判断の精度を高め、かつ従業員を守るための実務的なポイントを3点挙げます。
①記録を取ることを最優先にする
「いつ、何を、どのような言葉で言われたか」を必ずメモまたは録音で記録します。記録があれば、事後に上司や法務・顧問弁護士が客観的に判断できます。また記録の存在そのものが、相手の行為をエスカレートさせにくくする効果もあります。
「要求」と「感情表現」を分けて聞く
興奮状態にある顧客が大声で話していても、その中に「何を求めているか(要求の内容)」と「どのように伝えているか(手段・態様)」は切り分けられます。
要求の内容が妥当かどうかを冷静に見極めたうえで、手段の問題に対しては「内容については対応します、ただしその言い方は控えていただけますか」と伝えることが可能です。
一人で抱え込まず、即座にエスカレーションする
「自分が我慢すれば丸く収まる」という判断は、カスハラを繰り返させる原因になります。グレーゾーンと感じた時点で上司に状況を報告し、対応を引き継ぐかどうかの判断を組織として行う体制が必要です。
カスハラの具体例|行為別8つのパターン
カスハラには多様な形態があります。厚労省のガイドラインや各種調査をもとに、現場で実際に報告されている行為を8つのパターンに分類して解説します。自社で起きている事案がいずれのパターンに相当するかを確認することが、適切な対応策を選ぶ第一歩です。
暴言・人格否定(「死ね」「バカ」「無能」など)
暴言・人格否定は、カスハラの中で最も発生頻度が高いパターンです。UAゼンセンの2024年調査によると、カスハラ被害の内訳として「暴言」が最多の55.3%を占めました(連合 2022年調査報告書)。
具体的には「死ね」「バカ」「使えない」「頭がおかしい」「そんなこともわからないのか」といった言葉が該当します。これらは、それ自体で侮辱罪(1年以下の拘禁刑または30万円以下の罰金・科料)が成立しうる行為です。
侮辱罪とは、事実を示さずに人の社会的評価を低下させる発言をする犯罪で、2022年の刑法改正によって法定刑が引き上げられました。
対応の基本は、暴言が始まった段階で毅然と「その言葉は控えていただけますか。お話の内容については引き続き伺います」と伝えることです。それでも続く場合は、「このままでは対応を続けることができません」と告げて一度会話を中断する判断も必要です。記録が残る手段(文書や電話の録音)への切り替えも有効です。
長時間の拘束・繰り返しのクレーム電話
長時間の拘束とは、店舗のカウンターや電話口に従業員を長時間留め置き、業務遂行を不可能にする行為です。「数時間にわたって怒鳴り続ける」「同じ内容のクレームを毎日電話してくる」「夜間に何度も電話をかけてくる」といった形で現れます。
業務妨害として見た場合、威力業務妨害罪(3年以下の懲役または50万円以下の罰金)が成立しうるケースもあります。対応の実務としては、1回の対応時間に上限を設ける、複数回の同一クレームには「前回お伝えした通りです。会社の回答は変わりません」と簡潔に伝えて電話を切る、といった手順をマニュアルに明記しておくことが有効です。
一人の従業員が同じ顧客のクレームを長期間受け続けることは、担当者のメンタルヘルスに深刻なダメージを与えます。一定のクレーム頻度・回数を超えた場合は自動的に上位職や法務・弁護士に引き継ぐルールを組織として設けておくことが重要です。
土下座・過度な謝罪の強要
「土下座しろ」「社長を呼んで謝罪させろ」「謝罪文を書いて持って来い」といった、業務上適切な範囲を超えた謝罪の強要はカスハラに当たります。土下座を強制する行為は強要罪(3年以下の懲役)が成立しうるとされています。
このパターンが問題になりやすいのは、従業員側が「謝罪すれば相手が収まるかもしれない」と考えて応じてしまうケースです。しかしひとたび土下座に応じると、「要求すれば何でも通る」という前例になり、エスカレートするリスクが高まります。
企業として「土下座等の社会通念上不相当な謝罪には応じない」という方針を明文化し、現場の従業員がその方針を盾に断れる環境を整えることが不可欠です。
SNS・口コミへの投稿による脅し
「SNSに投稿するぞ」「ネットに悪口を書く」「口コミに書いてやる」といった発言がカスハラに該当するかどうかは、その意図と文脈によります。
単に「評判を広める」という予告にとどまる場合は問題ないこともありますが、「投稿するぞ」という言葉を使って従業員から金銭や過大な謝罪を引き出そうとする場合は、恐喝罪(10年以下の懲役)または強要罪が成立しうります。
SNSの普及によって、このパターンのカスハラは急増しています。対応の実務として重要なのは、「SNSに書かれることへの恐怖から要求に応じない」という方針を組織として共有することです。
不当な要求に応じることで投稿を抑止しようとするのは、長期的に見て組織的な損害を広げる結果になります。投稿された内容が事実と異なる場合は、名誉毀損(3年以下の懲役もしくは50万円以下の罰金)として法的措置を取ることも選択肢の一つです。
金品の要求・不当な値引き・過剰補償要求
商品やサービスに対して過剰な金銭補償・値引き・無償提供を要求する行為もカスハラに分類されます。「精神的ダメージを受けた慰謝料を払え」「全額返金の上、お詫びの品を持ってこい」「次回分も無料にしろ」といった、客観的な損害との釣り合いを著しく欠く要求が典型例です。
不当な利益を得る目的で、存在しない欠陥・被害を主張して金品を要求する場合は詐欺罪(10年以下の懲役)が成立しうります。対応として重要なのは、補償の範囲を社内で明確に定めておくことです。
「どの程度の補償が相当か」の基準がないと、現場の担当者が場当たり的に応じてしまい、後から「前回はこうしてくれた」という主張を招きます。
セクシュアルハラスメント的言動
顧客・取引先からの性的な言動や行為もカスハラの一形態です。「スカートをめくる」「体を触る」「性的な言葉を浴びせる」「プライベートの連絡先を執拗に求める」といった行為が含まれます。パーソル総合研究所の2024年調査では、カスハラの行為類型として「性的な言動」が7.3%に上ることが報告されています。
(パーソル総合研究所「カスタマーハラスメントに関する定量調査」2024年)
このパターンは、被害者が「職業柄我慢するしかない」と諦めやすい反面、継続的に受け続けると深刻な精神的被害をもたらします。身体への接触は不法行為(民法709条)および場合によっては強制わいせつ罪の問題にもなりえます。接客業では制服の見直しやカウンター越しの対応など、物理的な距離を確保する環境整備も対策の一つです。
不退去・待ち伏せ・つきまとい
店舗やオフィスから帰るよう求めても居座る「不退去」、従業員の帰宅ルートを待ち伏せする、繰り返し職場に押しかけるといった行為も重大なカスハラです。不退去罪(刑法130条:3年以下の懲役または10万円以下の罰金)は、退去要求を無視して建物に居座ることで成立します。
このパターンは、発展すると従業員に対するストーカー行為へと移行するリスクがあります。迷惑防止条例違反やストーカー規制法の問題にもなりえます。発生した場合は一人で対応させず、複数名での対応・記録・警察への通報を躊躇なく行う体制が必要です。
「一人でお客様を帰らせようとする」文化そのものを変えることが、このパターンへの最大の予防策です。
従業員の個人情報の調査・晒し上げ
「お前の名前と住所は調べてあるぞ」「家族にも連絡する」「SNSで実名を晒す」といった、従業員の個人情報を悪用する脅しもカスハラの一形態として深刻化しています。従業員の実名や住所をSNSに投稿する行為は、名誉毀損罪・プライバシー権の侵害として民事・刑事両面からの対応が可能です。
予防策として企業が取るべき対応は、まず接客時に従業員がフルネームを名乗る必要がないようにする(名札をファーストネームのみにするなど)こと、次に「個人情報を調べた・晒す」という言動があった時点で即座に弁護士に相談するフローを整備することです。
従業員が「自分の個人情報が守られている」と感じられる職場環境の整備が、安心して働けるための前提条件です。
【2026年】最新データで見るカスハラの実態
カスハラの問題を「感覚的な話」で終わらせないためには、定量データによる実態把握が不可欠です。厚生労働省・UAゼンセン・パーソル総合研究所・連合の4大調査を横断的に整理することで、被害の深刻さと企業が対策を急ぐ必要性がより明確になります。
このセクションでは、企業・労働者それぞれへの影響を数値で確認したうえで、労働災害(労災)認定という「最終ライン」の現状まで解説します。
企業・労働者への被害状況(厚労省・UAゼンセン・パーソル調査)
厚生労働省「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査」(2024年3月公表、出典:厚労省)は、企業調査と労働者調査の両面からカスハラの実態を明らかにしています。
企業調査では、過去3年間に顧客等からのハラスメントについて相談があった企業割合は27.9%で、前回調査(2020年度)の19.5%から8.4ポイント増加しました。
注目すべきは、ハラスメントの種類別に相談件数の増減を尋ねた設問で、カスハラだけが「増加している」と回答した企業割合(23.2%)が「減少している」(11.4%)を上回った唯一のハラスメントだという点です。パワハラ・セクハラ・マタハラが全体的に減少傾向にある中で、カスハラだけが悪化し続けています。
労働者調査では、過去3年間にカスハラを経験した割合は10.8%、そのうち「毎日顧客と接する仕事」に就く労働者では17.4%に上りました。また、相談を受けた企業のうちカスハラの判断が「難しい」と回答した企業は59.6%で、現場での判断困難さが浮き彫りになっています。
UAゼンセン「第3回カスタマーハラスメントに関するアンケート調査」(2024年1〜3月実施、33,133件回答、出典:UAゼンセン)は流通・サービス業の組合員を対象にした業界特化型調査です。直近2年以内にカスハラ被害を受けた割合は46.8%と、労働者のほぼ2人に1人が被害を経験しています。前回調査(2020年)の51.4%からはわずかに低下しましたが、4割超という高い被害率は依然として深刻です。
被害の内訳(複数回答)では、「暴言」55.3%、「説教など権威的な態度」46.7%、「長時間の拘束・同じ要求の繰り返し」39.8%が上位3位を占めました。一方、職場のカスハラ対策について「特に対策していない」と感じる従業員が42.2%に達し、企業の対策が従業員の実感と乖離している現状が示されています。
パーソル総合研究所「カスタマーハラスメントに関する定量調査」(2024年2〜3月実施、出典:パーソル総合研究所)は、幅広い業種を対象にカスハラ被害者の行動・心理・組織対応を定量化した調査です。カスハラ被害の経験率は全体で35.5%、直近3年以内に絞ると20.8%でした。
特筆すべきは、被害後の組織対応に関するデータです。「会社は何もしなかった」と回答した被害者は36.3%、被害を報告した後に上司や同僚から「過剰反応だ」「あなたにも問題がある」と言われるなどのセカンドハラスメントを経験した割合は**25.5%**に達しています。
つまり、被害を受けた従業員の4人に1人が、会社内で二次被害を受けている計算になります。カスハラ対策の不備は、一次被害にとどまらずセカンドハラスメントという形で職場全体の信頼を損なうリスクをはらんでいます。
業種別カスハラ被害率ランキング|医療・福祉・ドラッグストアが突出
業種によってカスハラの発生率・深刻度は大きく異なります。厚労省「令和5年度実態調査」の業種別データと、UAゼンセン2024年調査の業種別データを合わせて整理すると、医療・福祉・小売の被害率が際立って高いことがわかります。
厚労省調査では、カスハラ相談があった企業割合の業種別トップ3は医療・福祉53.9%、宿泊業・飲食サービス業46.4%、不動産業・物品賃貸業43.4%となっています。UAゼンセン調査(流通・サービス業特化)ではドラッグストア56.7%、パチンコホール51.9%、**家電量販店50.7%**が上位を占めました。
医療・福祉分野でカスハラが深刻な理由は複数あります。まず、患者・利用者やその家族が「命・健康に関わる不安」を抱えていることで、感情的になりやすい状況が日常的に生じます。次に、「お世話になっているから強く言えない」という関係性の非対称性が、被害を表面化させにくくしています。さらに、「患者様・ご利用者様最優先」という職業倫理が、カスハラへの毅然とした対応を心理的に阻んでしまうケースが少なくありません。
宿泊・飲食業では、24時間対応・顔の見える接客・お酒が入った場面など、カスハラが発生しやすい環境的要因が重なっています。小売・ドラッグストアでは商品在庫・価格・セール対応をめぐる交渉が日常的に発生しており、これがカスハラに発展するケースが多いとされています。
業種別の分布を把握しておくことで、自社が属する業界の水準と自社の被害状況を比較し、対策の優先度を判断する材料にすることができます。
カスハラ被害がもたらすメンタルヘルスへの影響と離職リスク
カスハラが従業員個人の心身に与える影響は、単なる「嫌な経験」では済まない深刻なものです。パーソル総合研究所の調査では、カスハラ被害を受けた労働者の38.0%が「仕事を辞めたいと思った」と回答しています。また、転職意向についてはカスハラ被害経験者が非経験者の1.8〜1.9倍高いという結果も示されており、人材の流出リスクとして経営上無視できない問題です。
連合「2022年カスタマーハラスメントに関する調査」(出典:連合)では、被害後に「出勤することが憂鬱になった」が38.2%、「心身に不調をきたした」が26.7%、「仕事へのやる気がなくなった」が48.7%という結果が報告されています。
Business Insider Japanが2024年に実施した調査によれば、カスハラ被害経験者の76.4%が仕事に対してネガティブな影響を受けたと回答しています(出典:Business Insider Japan)。「出勤が憂鬱になった」という回答が最多で、慢性的なカスハラ暴露がいかに職業生活全体を蝕むかを示しています。
企業にとってのコストは直接的な離職コスト(採用・教育費用)にとどまりません。カスハラ被害を受けた従業員の生産性低下、欠勤・休職の増加、他の従業員への萎縮効果、優秀な人材が働きたいと思えない職場環境の形成など、組織全体に波及するリスクが存在します。カスハラ対策を「コスト」として捉えるのではなく、「人材・組織力を守るための投資」として位置づけることが、経営的に合理的な判断です。
精神障害の労災認定108件(2024年度)|カスハラが過去最多水準に
労働災害(労災)認定は、カスハラ被害の深刻さを示す最も客観的な指標の一つです。厚生労働省が2025年6月に公表した「令和6年度 過労死等の労災補償状況」によると、精神障害の労災認定のうち出来事類型「顧客や取引先、施設利用者等から著しい迷惑行為を受けた(カスハラ)」が原因のものは108件で、過去最多を更新しました。
(出典:厚労省)
これはパワーハラスメント(224件)、仕事の量・変化(119件)に次ぐ第3位であり、セクシュアルハラスメント(105件)をも上回る水準です。カスハラによる精神障害の労災認定108件という数字は、「申請件数」ではなく「認定件数」であることに留意が必要です。実態として申請に至らないケース、申請しても認定されないケース、そもそもカスハラが原因と気づかないケースを含めれば、実際の被害はこの数字をはるかに超えると考えられます。
業種別に見ると、福祉関連が47件(43.5%)と突出して多く、医療・福祉分野でのカスハラが特に深刻な労働問題となっていることが裏付けられています。
2023年9月には厚生労働省が精神障害の労災認定基準を改正し、「顧客等から著しい迷惑行為を受けた」が心理的負荷の強度「強」として認定基準に明記されました(出典:厚労省)。
これにより、カスハラを原因とした精神障害の労災申請・認定が以前より行いやすくなっており、今後も認定件数は増加傾向をたどると予測されます。企業としては、「労災認定が出てから対応する」という後手の姿勢では、法的リスクと信頼毀損のダメージが重なりかねません。
カスハラに関連する法律と罪名
カスハラは「マナーの問題」ではなく、既存の法律の複数の条文が適用される「法的問題」です。このセクションでは、カスハラ行為に適用しうる刑法上の罪名、使用者(企業)が負う安全配慮義務、そして2023年9月に改正された精神障害の労災認定基準の3点を解説します。
法的な根拠を理解することで、企業の対応方針がより明確になり、現場の従業員も「法律が自分たちを守っている」という安心感を持てるようになります。
カスハラが成立しうる刑法上の罪名(脅迫罪・強要罪・侮辱罪など)
カスハラの行為類型によって、適用される刑事法の条文は異なります。主な罪名と対応する行為パターンを以下に整理します。刑法:https://laws.e-gov.go.jp/law/140AC0000000045
脅迫罪(刑法222条:2年以下の懲役または30万円以下の罰金)
相手の生命・身体・自由・名誉・財産に害を加える旨を告知して人を脅した場合に成立します。「殺すぞ」「お前の家族に何かしてやる」「SNSで晒すぞ」といった言葉が典型例です。
ただし「SNSに書く」という言葉が脅迫罪に該当するためには、その告知が相手に恐怖を感じさせるほどの害悪の告知であることが必要であり、単なる予告では脅迫罪が成立しないケースもあります。
強要罪(刑法223条:3年以下の懲役)
脅迫や暴行を手段として人に義務のないことを行わせた場合に成立します。「土下座しろ」「謝罪文を書いて持ってこい」という要求に脅迫的な言動が伴う場合がこれにあたります。
恐喝罪(刑法249条:10年以下の懲役)
脅迫を手段として財物の交付を要求した場合に成立します。「SNSに書くぞ、嫌なら金を払え」という構造の要求が典型例です。強要罪(義務のないことをさせる)よりも重い罪であり、金銭要求が伴う場合は恐喝罪の検討が優先されます。
侮辱罪(刑法231条:1年以下の拘禁刑または30万円以下の罰金・科料)
は、事実を示さずに公然と人の名誉を毀損した場合に成立します。2022年の刑法改正で法定刑が引き上げられ、「バカ」「死ね」「使えない」といった言葉を大勢の前で浴びせる行為が対象となります。
威力業務妨害罪(刑法234条:3年以下の懲役または50万円以下の罰金)
威力を用いて人の業務を妨害した場合に成立します。大声で怒鳴り続ける、店舗に長時間居座る、電話口を長時間占拠するといった行為が業務の実質的な妨害に至った場合が該当しえます。
不退去罪(刑法130条:3年以下の懲役または10万円以下の罰金)
退去を求められたにもかかわらず建物から退去しない場合に成立します。「お帰りください」「警察を呼びます」と告げた後も居座る行為が典型です。
これらの罪名を知っておくことは、現場での対応判断に直接役立ちます。
「法的に問題のある行為だ」という認識があれば、「とにかく謝って収めるしかない」という誤った対応を防ぎ、証拠保全・警察への通報・弁護士相談といった正しいルートに乗せやすくなります。
事業主に課せられる安全配慮義務(労働契約法第5条)
カスハラが起きた場合に企業(使用者)が負う法的責任の根幹となるのが、労働契約法第5条に定める安全配慮義務です。同条は「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」と定めています。
この「安全配慮義務」は、物理的な安全だけを指すのではありません。精神的な健康(メンタルヘルス)も含まれます。つまり、カスハラによって従業員がうつ病などの精神疾患を発症した場合、企業がカスハラ対策を怠っていれば、安全配慮義務違反として損害賠償を求められる可能性があります。
実際に、カスハラが原因で精神疾患を発症した従業員が使用者に損害賠償を請求した裁判例は複数存在します。企業がカスハラを把握しながら適切な対応を取らなかったと認められた場合、数百万円規模の損害賠償が命じられたケースもあります。
安全配慮義務を果たすために企業がすべき具体的な措置としては、
- カスハラ防止方針の策定と周知
- 相談・報告体制の整備
- 被害発生時の迅速な対応と被害者ケア
- マニュアルの整備と研修の実施
が挙げられます。これらは2026年10月施行の法改正で「措置義務」として明文化される内容でもあり、先んじて整備しておくことが合理的な経営判断です。
カスハラが精神障害の労災認定基準に追加(2023年9月改正)
2023年9月1日、厚生労働省は「心理的負荷による精神障害の認定基準」を改正し、「顧客や取引先、施設利用者等から著しい迷惑行為を受けた」という出来事を、心理的負荷の強度「強」として明記しました(出典:厚労省)。
これはカスハラを受けた労働者が精神障害(うつ病など)を発症した場合に、労働災害として認定されやすくなることを意味します。労災認定が降りると、従業員は治療費・休業補償・障害補償などを労災保険から受け取ることができます。
企業側にとっては、労災認定が出ることで「安全配慮義務を果たしていたか」が厳しく問われるリスクが高まります。また、労災認定後に従業員が民事訴訟を起こすケースもあり、賠償リスクが実質的に高まります。
2023年の認定基準改正を機に、カスハラを「個人の問題」ではなく「企業が法的責任を負いうる労働問題」として組織的に扱う必要性が、法制度として明確に位置づけられたといえます。
2026年10月義務化|改正労働施策総合推進法のロードマップ
2026年10月、日本のカスハラ対策は新たな局面を迎えます。改正労働施策総合推進法の施行により、すべての企業に対してカスハラ防止のための措置が義務化されるからです。これは、パワーハラスメント対策が2019年の法改正によって義務化されたのと同様の流れです。施行まで残り約7ヶ月を切った今(2026年3月現在)、準備の遅れている企業は早急に対応を進める必要があります。
法改正の経緯:東京都条例から国の義務化へ(2024〜2026年)
現在に至る法制化の流れは、2024年の東京都条例から始まりました。以下に時系列で整理します。
- 2023年9月、厚生労働省が精神障害の労災認定基準を改正し、カスハラを「強度の心理的負荷」として明記。これを機に法整備の議論が加速しました。
- 2024年10月、東京都がカスタマー・ハラスメント防止条例を全国で初めて成立させました。事業者にカスハラ防止のための必要な措置を講ずる努力義務を課す内容で、条例違反への直接的な罰則こそないものの、「カスハラに対処する義務は企業にある」という社会的規範を明文化した点で画期的でした(出典:東京都)。
- 2024年11月に北海道が、2024年12月に三重県桑名市が相次いで条例を成立させました。桑名市の条例は全国初の氏名公表制裁措置を含む内容として注目を集めました。
- 2025年3月には改正労働施策総合推進法案が閣議決定され、2025年4月には東京都・北海道・群馬県・桑名市の各条例が施行されました。
- 2025年6月、改正労働施策総合推進法が国会で成立・公布されました。カスハラ対策を事業主の「措置義務」として法律に明記するという、パワハラ防止法と同格の位置づけです(出典:BUSINESS LAWYERS)。
- 2026年10月1日、改正労働施策総合推進法が施行されます。この日以降、全企業はカスハラ防止措置を講じていない場合、行政指導・勧告の対象となりえます。さらに厚労省の指針(ガイドライン)では2026年12月10日までに必要な措置を完了させることが求められています(出典:社会保険労務士法人おぎ堂事務所)。
この法改正の流れは、東京都という大都市での先行立法→近隣自治体への波及→国による全国一律の義務化、という典型的なボトムアップ型の規制形成プロセスをたどっています。
既に東京都内に事業所を持つ企業は条例対応が先行して求められますが、2026年10月以降はすべての企業が対象です。
2026年10月から企業に義務づけられる具体的な措置内容
改正法・厚労省指針(案)に基づき、2026年10月以降に企業が義務として実施すべき措置の内容を整理します。基本的な枠組みはパワーハラスメント防止措置(6項目)と共通しており、カスハラの特性に応じた追加要素が加わっています。
- 事業主によるカスハラ防止の方針の明確化・周知徹底。カスハラを許容しない旨の基本方針を策定し、全従業員に対して周知することが求められます。方針の内容には、「カスハラの定義」「カスハラと判断した場合の対応方針(要求に応じない・警察への相談を含む毅然とした対応を行う等)」が含まれます。
- カスハラの実態把握に係る措置。相談窓口の設置等により、カスハラの発生状況を把握する体制の整備が求められます。
- カスハラに関する相談に応じ、適切に対応するための体制の整備。従業員がカスハラ被害を相談できる窓口の整備と、相談担当者が適切に対応できるようにするための研修・マニュアルの整備が含まれます。
- カスハラへの事後の迅速かつ適切な対応。被害が発生した際の対応フロー(事実確認・被害者のケア・行為者(顧客)への対応・再発防止策)を整備することが求められます。
- 業務体制の整備等、カスハラの発生を防止するための取組。一人対応を避けること、対応時間の上限設定、店舗内の録音・録画設備の整備などが含まれます。
- プライバシーの保護・不利益取扱いの禁止。相談した従業員や証言した従業員がプライバシーを侵害されたり不利益な扱いを受けないようにすることも義務の対象です。
これらは「新しい義務」ではなく、安全配慮義務の観点からすでに企業が本来行うべきものを法的に明文化したものといえます。
パワハラ防止法対応として整備したハラスメント相談窓口・研修体制・就業規則等をカスハラ向けに拡充・修正することで、比較的スムーズに対応できる企業も多いはずです。
全国のカスハラ防止条例一覧と自治体の動向
国の法改正に先行して、各自治体でカスハラ防止条例の制定が相次いでいます。2025年3月時点で施行済み・成立済みの主な条例を以下に整理します。
| 自治体 | 条例名 | 成立/施行 | 特記事項 |
|---|---|---|---|
| 東京都 | カスタマー・ハラスメント防止条例 | 2024年10月成立・2025年4月施行 | 全国初の都道府県条例 |
| 北海道 | カスタマーハラスメント対策推進条例 | 2024年11月成立・2025年4月施行 | — |
| 群馬県 | カスタマーハラスメントの防止等に関する条例 | 2025年3月公布・2025年4月施行 | — |
| 三重県桑名市 | カスタマーハラスメント防止条例 | 2024年12月成立・2025年4月施行 | 全国初の氏名公表制裁措置 |
さらに、愛知県・三重県(県単位)・岩手県・栃木県・埼玉県・静岡県・和歌山県なども条例制定に向けた検討・審議を進めており、今後も全国各地で条例の拡大が見込まれます。
東京都条例の特徴は、事業者(企業)だけでなく消費者・顧客側にも「カスハラを行ってはならない」という規定を設けた点です。これは「カスハラは顧客側の問題でもある」という価値観を社会規範として確立しようとする、重要なメッセージといえます。
桑名市の条例は全国唯一の氏名公表制裁を含む先進的な内容ですが、罰則の有無・対象の範囲・義務か努力義務かという点は条例ごとに異なります。複数の都道府県に事業所を持つ企業は、各自治体の条例内容を個別に確認しておくことが必要です。
中小企業が2026年10月までに準備すべきチェックリスト
「大企業の話では?」と思われがちですが、改正労働施策総合推進法は企業規模を問わず全事業主が対象です(パワーハラスメント防止法と同様)。人事部門や法務部門が整備されていない中小企業こそ、早めに体制を整えておく必要があります。
以下は、2026年12月10日の最終期限を念頭に置いた、中小企業向けの実務チェックリストです。「✓」のついた項目が現時点(2026年3月)で対応済みかどうかを確認してください。
【2026年3月までに完了すべき事項】
- □ カスハラの定義と自社の基本方針を経営者レベルで確認・決定する
- □ 自社でカスハラに該当しうる行為の具体例リストを作成する(業種に合わせてカスタマイズ)
- □ 厚労省の「カスタマーハラスメント対策マニュアル・対応ガイドライン」(無償公開)をダウンロードし、担当者が精読する
【2026年6月までに完了すべき事項】
- □ カスハラ防止方針を文書化し、就業規則または社内規程に追加する
- □ 対応マニュアルの草案を作成する(厚労省のひな形を活用)
- □ カスハラ相談を受け付ける窓口(担当者・連絡先)を決定する
【2026年9月までに完了すべき事項】
- □ 全従業員へのカスハラ方針周知(社内掲示・メール・研修等)を実施する
- □ 現場管理職・相談窓口担当者向けのカスハラ対応研修を1回以上実施する
- □ 被害発生時のエスカレーションフロー(現場→管理職→経営者/弁護士)を整備する
- □ 被害者ケアのための社外相談窓口(EAP・産業医)との連携を確認する
【2026年10月(施行日)までに完了すべき事項】
- □ 就業規則の改定内容を労働基準監督署に届け出る(常時10名以上の場合)
- □ 全措置の実施状況を文書でまとめ、経営者が確認・承認する
中小企業が最低限取り組むべきことは「方針の策定・周知」と「相談窓口の設置」の2点です。完璧なマニュアルを一から作ろうとせず、厚労省が無償公開しているひな形(カスタマーハラスメント対策マニュアル)を自社の業種・規模にカスタマイズする方法が最も現実的です。弁護士や社会保険労務士への相談は、自社の状況に合わせた規程の整備段階(2026年6月頃)に行うと費用対効果が高まります。
【企業向け】カスハラ対策の進め方|6ステップ実践ガイド
カスハラ対策は「何か起きてから考える」では遅すぎます。2026年10月の法改正施行を見据え、今から組織として段階的に整備を進めることが求められます。
このセクションでは、規模・業種を問わず取り組める6ステップを実務の視点から解説します。各ステップは独立しておらず、順番に積み上げることで「従業員が安心して働ける組織的防衛ライン」が形成されます。
STEP1:カスハラの定義と基本方針を就業規則・社内規程に明文化する
対策の出発点は、「自社はカスハラをどう定義し、どういう方針で対応するか」を経営レベルで決定し、文書化することです。口頭での周知や「そういう場合はうまく対処するように」という曖昧な指示では、従業員は判断基準を持てず、被害を受けても「自分の対応が悪かったのかもしれない」と抱え込んでしまいます。
就業規則または別途設ける「カスハラ対応規程」に盛り込むべき内容は以下の通りです。
- (1)カスハラの定義:厚労省の定義(要求内容の妥当性・手段態様の相当性・就業環境への影響の3要件)をそのまま引用したうえで、自社業種に即した具体例を付記することが効果的です。
- (2)カスハラに対する基本方針の宣言:「当社は、従業員の就業環境を守るため、顧客等からの著しい迷惑行為(カスハラ)に対して組織として毅然と対応します」といった趣旨の方針を経営トップの名義で明示します。「お客様を大切にする」ことと「従業員を守る」ことは矛盾しないという姿勢を、会社が明確に示すことが重要です。
- (3)カスハラと判断した場合の対応原則:「不当な要求には応じない」「悪質な場合は警察・弁護士へ相談する」「被害を受けた従業員を組織として支援する」という原則を明文化します。この一文があるだけで、現場の従業員が「会社が守ってくれる」と感じやすくなります。
規程への明記は、就業規則の一部として扱う場合、常時10名以上の事業所は労働基準監督署への届け出が必要です。社労士や弁護士に文案を確認してもらうことで、法的な不備を防げます。
STEP2:カスハラ対応マニュアルを作成する(厚労省ひな形の活用)
方針を決めたら、次は「具体的にどう動くか」を定めたマニュアルの作成です。マニュアルの目的は、いざカスハラが発生した際に担当者が迷わず行動できるようにすること、そして対応の一貫性を組織全体で確保することです。
厚生労働省は「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(ダウンロード無償)を公開しており、業種横断的に使えるひな形として活用できます。加えて業種別のマニュアルとして、「スーパーマーケット業編」(2024年度策定)・「宅配業編」(2025年度策定)も公開されており、対象業種の企業はこれらも参照することが推奨されます。
マニュアルに盛り込むべき主な内容は以下の通りです。
- 初動対応の手順:カスハラと疑われる行為が発生した際の第一声のフレーズ、一人対応から複数対応への切り替えタイミング、記録(メモ・録音)の開始タイミング。
- エスカレーションのルート:現場担当者→現場責任者(店長・課長等)→本部・法務担当→顧問弁護士・警察という段階別の引継ぎ基準と連絡先。「どの段階で誰に連絡するか」が不明確だと、被害が悪化してから上位者が初めて知る事態になりがちです。
- 対応の限界設定:「何回目の繰り返し要求で電話を打ち切るか」「何分以上の拘束があった時点で上位者に交代するか」など、定量的な基準があると担当者が自己判断で無限に対応し続けることを防げます。
- 証拠保全の方法:発言内容のメモ(日時・場所・発言の逐語記録)、会話録音の適法な実施方法(自らが当事者として参加している通話は原則として録音可能)、防犯カメラ映像の保存手順。
マニュアルは完成させることより「使われること」が目的です。A4一枚のフローチャートにまとめたものをレジ横や電話機の近くに貼り出すだけでも、現場の対応速度と一貫性は大幅に向上します。
STEP3:従業員への研修・周知徹底を実施する
マニュアルを作っても知られていなければ意味がありません。全従業員への研修実施と継続的な周知が必要です。厚労省の調査によると、カスハラ対策として「従業員への研修・啓発」を実施している企業は全体の**28.6%**にとどまっており(令和5年度実態調査)、多くの企業で研修が手薄になっていることがわかります。
研修の内容と対象者別の優先度を以下のように設定すると効率的です。
- 全従業員向け(年1回以上):カスハラの定義と会社の基本方針・自分が被害を受けた際の報告の仕方・相談窓口の連絡先。研修時間は30〜60分程度で十分です。集合研修が困難な場合は、動画教材や社内イントラへの資料掲載でも代替できます。
- 現場責任者・管理職向け(年1回以上):カスハラの判断基準と対応フロー・現場での初動対応の実演練習(ロールプレイング)・部下から相談を受けた際の傾聴・記録・エスカレーションの方法・セカンドハラスメントを生まないための注意点。管理職研修では「部下を守る立場」という役割意識の醸成が特に重要です。
- 相談窓口担当者向け(着任時・変更時):相談受付の手順・個人情報の取扱い・中立性の保ち方・外部機関(弁護士・産業医・労働局等)との連携フロー。
研修後には理解度確認や感想収集を行い、次回の改善に活かすサイクルを設けることで、形骸化を防ぎます。
STEP4:社内相談窓口と報告ルートを整備する
従業員がカスハラ被害を報告しやすい環境を作ることは、対策の実効性を左右する最重要事項の一つです。
パーソル総合研究所の調査では
- 「会社は何もしなかった」という回答が36.3%
- 「セカンドハラスメントを受けた」が25.5%
という深刻な結果が出ています。これは相談窓口が形式的に存在していても機能していないケースが多いことを示しています。
機能する相談窓口の設計には以下のポイントがあります。
- 匿名・記名の両方で受け付ける:記名での相談のみだと、「上司に知られたら気まずい」「大げさだと思われたくない」と感じて報告が減ります。匿名でも受け付けられる仕組み(書面・社内システム等)を用意することで、被害の早期把握が可能になります。
- 担当者に守秘義務を課す:「相談内容を誰かに話した」という不信感が生まれると、窓口は機能しなくなります。担当者は相談内容を許可なく第三者に開示しない義務を負うことを規程に明記します。
- 相談後のフィードバックを行う:相談後に「どう対応したか」が報告者に伝わらない場合、「相談しても無駄だった」という印象が組織内に広まります。個人情報保護の範囲内で、対応の方向性と結果を報告者に伝えることが窓口への信頼構築につながります。
- 外部相談窓口も並行して設置する:社内窓口に相談しにくい場合のために、外部のEAP(従業員支援プログラム)や社外弁護士への相談ルートも周知します。費用対効果が高いのは、社労士・弁護士と顧問契約を結び、緊急時のホットラインを設けることです。
STEP5:発生時の対応フローを組織で共有する(初動・エスカレーション・記録)
カスハラは「いつ・どこで・誰が被害を受けるかわからない」という性質があります。そのため、発生時の対応フローを全員があらかじめ理解していることが、被害の最小化に直結します。フローの共有なしに個々の担当者任せにすると、対応の遅れ・記録の漏れ・被害者の孤立・加害者のエスカレートという四重苦が起こりやすくなります。
- 初動対応(発生直後):被害を受けた従業員は、その場で記録(メモ・録音)を開始し、速やかに上位者に状況を伝えます。「自分で何とかしなければ」という心理的プレッシャーを下げるために、「1人で5分以上対応が続いたら必ず声をかけてもらう」などの具体的なルールを設定しておきます。
- 中期対応(発生後〜事態収束まで):上位者が主担当として引き継ぎ、必要に応じて法務担当や弁護士に相談します。要求への回答は「即答しない・持ち帰って確認する」を原則にし、組織的判断のもとで対応します。相手への対応はすべて記録(会話録音・書面による回答)に残します。
- 事後対応(事態収束後):被害を受けた従業員へのケア面談を行います。再発防止の観点から、今回の事案の経緯・対応の評価・改善点をまとめた報告書を作成し、組織内で共有します。類似事案の防止に役立てます。
対応フローは「やったこと・いつ・誰が」を文書に残す習慣を徹底することが肝要です。後日、労災申請・訴訟・労働局の調査等が入った際に、記録の有無が企業の対応の適切さを証明する唯一の手段になります。
STEP6:被害を受けた従業員へのメンタルケア体制を構築する
カスハラ対応の仕上げとして、被害を受けた従業員のメンタルケアを組織として担保する仕組みが必要です。連合の調査では、被害者の26.7%が「心身に不調をきたした」と回答しており、被害後のケアなしでは離職・休職のリスクが高まります。また被害者へのケア体制がある企業は全体の**20.8%**にすぎず(連合2022年調査)、大半の企業でこの部分が手薄です。
- 被害直後のケア:管理職が被害者に声をかけ、「あなたは悪くない」「組織として対応する」というメッセージを伝えます。「よく対応してくれた」「あの件はどうだったの?」という形で自然に状況を聞く機会を設けることも有効です。
- 継続的なフォローアップ:被害後1週間・1ヶ月のタイミングで状態確認を行います。「大丈夫ですか?」という一言でも、会社が気にかけていることが伝わります。精神的な不調の兆候(睡眠障害・食欲不振・集中力の低下・出勤意欲の低下)が見られた場合は、産業医・社外EAPへのつなぎを積極的に行います。
- 業務上の配慮:同一顧客からの被害が繰り返されるケースでは、担当者を変更することも有効な手段です。「担当変更は担当者の失敗ではない」という認識を組織として共有することが重要です。また、特に被害が続く顧客との取引継続可否を経営判断として検討することも選択肢に入ります。
【従業員向け】カスハラ被害を受けたときの行動ガイド
企業の対策整備が進んでいても、実際にカスハラ被害を受けた従業員が「何をすればいいか」を知らなければ意味がありません。
このセクションは、カスハラ被害に遭った・遭いそうな従業員が自分で読んで実践できる行動ガイドです。「自分が受けた行為はカスハラか?」という疑問から、証拠の保全・社内報告・外部相談・労災申請まで、ステップを追って解説します。
自分が受けた行為はカスハラ?セルフチェックの方法
「これはカスハラなのか、自分の対応が悪かったのか」と悩む人は多くいます。まず、以下のセルフチェック項目を確認してみてください。いずれか一つでも当てはまるものがあれば、カスハラに該当する可能性があります。
言動のチェック
- □ 「死ね」「バカ」「使えない」など人格を傷つける言葉を言われた
- □ 大声で怒鳴られ、他の従業員や客にも聞こえる状況だった
- □ 「SNSに書く」「ネットに晒す」と脅された
- □ 土下座や書面による謝罪を強要された
- □ 性的な言葉をかけられた、または体を触られた
状況のチェック
- □ 対応が30分以上続き、業務が止まった
- □ 同じ相手から繰り返し(週3回以上など)クレームが入っている
- □ 自分の名前や住所を調べたと言われた
- □ 帰り道を待ち伏せされた・つきまとわれた
心身のチェック
- □ その人からの電話・来店が怖くて仕方ない
- □ 出勤前から気が重く、体調不良が続いている
- □ 夜眠れない、食欲がないといった変化が2週間以上続いている
心身のチェック項目に複数当てはまる場合、カスハラによる精神的被害がすでに進行している可能性があります。この段階では、一人で我慢せず、次のステップ(記録→報告)を速やかに進めることが重要です。
被害を受けたらすぐやること|証拠の保全・記録の方法
カスハラ被害の対応で最も重要かつ後回しにされやすいのが、証拠の保全です。記録がなければ、社内への報告・労働局への相談・弁護士への依頼・労災申請のいずれの場面でも「証明できない」という壁に当たります。被害を受けた直後から、以下を意識して記録を積み上げてください。
発言・行動のメモを取る
被害があった直後(当日中)に、以下の情報をメモします。①日時と場所、②相手の外見的特徴・名前(分かる場合)、③相手の発言をできるだけ正確に逐語記録する、④その場にいた同席者の名前、⑤自分がどう感じたか(恐怖・不安・屈辱等)。後から記憶が薄れる前に書くことが重要です。
会話を録音する
自分が当事者として参加している会話を録音することは、原則として適法です(盗聴とは異なります)。スマートフォンのボイスレコーダー機能を事前にすぐ起動できる状態にしておくと、突発的なカスハラにも対応できます。録音データは上書き・削除せずに保管してください。
防犯カメラ映像の保全を申し出る
店舗や施設に防犯カメラがある場合、被害当日に管理者に映像の保存を申し出ます。多くのシステムでは一定期間後に自動上書きされるため、早めの申し出が必要です。
身体的被害がある場合は診断書を取得する
押し倒された・物を投げられた等の身体的被害があった場合は、当日または翌日中に医療機関を受診し、診断書を取得します。後の労災申請・刑事告訴に欠かせない証拠になります。
社内への相談・報告の仕方と注意点
証拠を保全したら、社内の相談窓口または上司への報告を行います。「大げさだと思われないか」「報告して面倒なことになったら嫌だ」という心理的ハードルを感じる人も多いですが、報告しないことで被害が長期化・悪化するリスクの方がはるかに大きいです。
報告の際に伝えるべき内容
①いつ・どこで・誰から(相手の特徴)、②どんな発言や行動があったか(記録したメモを提示する)、③自分がどう感じたか(就業環境への影響)、④今後どうしてほしいか(担当を変えてほしい・法的対応を検討してほしい等)。
報告後に注意すべき点
報告の内容と日時を自分でも記録しておきます。「○月○日、△△さんに報告した」というメモが、後日「報告した・しない」の水掛け論を防ぎます。
報告後に上司から「あなたにも問題がある」「そのくらい我慢しなさい」と言われた場合、それ自体がセカンドハラスメントです。その場合は、さらに上位の上司または会社の相談窓口・外部機関に相談します。
上司が相談しにくい場合
ハラスメント相談窓口(社内設置の場合)または外部の相談窓口を直接使います。会社に相談窓口がない場合は、各都道府県の労働局「総合労働相談コーナー」(無料・全国対応)に相談することができます。
社内対応に限界を感じたら?外部相談窓口・公的機関一覧
社内での対応が進まない、または相談しにくい場合は、外部の公的機関や専門家への相談を躊躇わないでください。以下に主な相談窓口をまとめます。
労働基準監督署・都道府県労働局「総合労働相談コーナー」 全国の労働局・労働基準監督署に設置されており、労働問題に関する相談を無料で受け付けています。予約不要で相談でき、必要に応じてあっせん(労使間の話し合いを仲介する手続き)を利用することもできます。 厚労省 総合労働相談コーナー一覧
法テラス(日本司法支援センター) 弁護士への相談料が払えない場合でも利用できる国の機関です。収入が一定以下の方には弁護士費用の立替制度もあります。カスハラによる損害賠償請求や刑事告訴を検討する際の最初の相談先として適しています。 電話:0570-078374(平日9時〜21時、土曜9時〜17時)
こころの耳(働く人のメンタルヘルス・ポータルサイト) 厚生労働省が運営するメンタルヘルス相談のポータルサイトです。電話相談(0120-565-455)とメール相談(回答は3営業日以内)を無料で提供しています。カスハラによる精神的ダメージが深刻な場合の最初の相談先に適しています。 こころの耳 公式サイト
各都道府県の産業保健総合支援センター(さんぽセンター) 産業医や産業保健師への相談を無料で受け付けています。職場のメンタルヘルス問題について専門家に相談したい場合に利用できます。 全国さんぽセンター一覧
弁護士(法律事務所への直接相談) カスハラ加害者への損害賠償請求、刑事告訴の検討、会社への安全配慮義務違反の追及を検討する場合は弁護士への相談が必要です。多くの法律事務所が初回30分〜1時間の無料相談を実施しています。
カスハラが原因で心身に不調が出たとき|労災申請の手順
カスハラが原因でうつ病などの精神疾患を発症した場合、労働災害(労災)として申請できる可能性があります。2023年9月の認定基準改正により、「顧客等から著しい迷惑行為を受けた」は心理的負荷「強」として明示的に認められており、以前より労災認定が通りやすくなっています。
労災申請の基本的な流れ
①医療機関で受診・診断書を取得する。精神科・心療内科を受診し、症状と業務上の原因(カスハラを受けたこと)を医師に伝えます。診断書はできる限り「業務上の原因による」という記載を含めてもらうよう相談します。
②会社への報告と証拠の収集。会社に労災申請の意向を伝え、関連する証拠(カスハラの記録・証言・会話録音等)を収集します。会社が協力しない場合でも、労働者本人が直接申請できます(会社の協力は必須ではありません)。
③労働基準監督署に申請書を提出する。「業務上疾病」の労災申請書(様式第5号または第16号の3)を最寄りの労働基準監督署に提出します。精神疾患の場合は「心理的負荷による精神障害の認定基準」に基づく審査が行われ、通常3〜6ヶ月程度で審査結果が通知されます。
④認定されると補償が開始される。労災認定が降りると、治療費(療養補償給付)・休業中の賃金補償(休業補償給付:給付基礎日額の80%相当)・障害が残った場合の補償(障害補償給付)が労災保険から支給されます。
労災申請は「会社への攻撃」ではなく、労働者が当然利用できる権利です。申請したことを理由に会社から不利益な扱いを受けることは法律で禁止されています(労働者災害補償保険法22条の2)。一人での申請に不安がある場合は、前述の法テラスや弁護士への相談を先行させることを推奨します。
カスハラ対策業種別対策ガイド
カスハラは業種によってその発生パターン・深刻度・対応の難しさが大きく異なります。「業種共通のマニュアル」だけでは対処しきれない場面も多く、自分の職場に合わせた具体的な対策を知っておくことが重要です。ここでは被害率の高い5業種について、それぞれの特性と実践的な対策を解説します。
医療・介護・福祉|患者・利用者からの被害に特有の難しさと対策
医療・福祉分野でカスハラの被害率が全業種中最高水準(53.9%、厚労省調査)となっている背景には、この分野に固有の構造的問題があります。
固有の難しさ
第一に、患者・利用者が身体的・精神的に脆弱な状態にあることが多く、ケアする側としての職業倫理が「強く言い返せない」という心理的制約を生みます。
第二に、患者・利用者との継続的な関係性(毎日通う施設、長期入院等)があるため、「関係が壊れるのが怖い」という恐れが対応を萎縮させます。第三に、家族からのハラスメントも多く、「患者本人ではないから」と認識されにくい側面があります。
具体的な対策
「説明を尽くしたうえで、それ以上は応じない」という組織的な方針が最も重要です。医療・介護の現場では「もっと丁寧に説明すれば分かってもらえるはず」という過剰な個人努力に依存した対応が繰り返されがちですが、これはカスハラを継続させる構造です。
「一定時間以上の同一クレームへの対応は管理者が引き継ぐ」「家族との面談は複数名で対応する」というルールを設けることが有効です。
また、カスハラ被害を「恥ずかしいこと」「自分の力量不足」として隠す職場文化を変えることが不可欠です。チームカンファレンスや申し送りの場に「今日困ったこと・怖かったこと」を共有できる時間を設けることで、早期発見・早期支援が可能になります。
日本医師会・全国老人福祉施設協議会・日本介護福祉士会などの業界団体がカスハラ対応ガイドラインを独自に公表しており、これらを参照することも推奨されます。
小売・ドラッグストア・スーパー|厚労省スーパーマーケット業編マニュアルのポイント
2024年度、厚生労働省はスーパーマーケット業界向けの「カスタマーハラスメント対策マニュアル(スーパーマーケット業編)」を策定しました(厚労省公表資料)。流通・小売業に特化した具体的な対応手順が示されており、同業種の企業にとって実務直結の参考資料です。
スーパー・小売業特有のカスハラパターン
商品の価格・在庫・品質をめぐるクレームが発端になるケースが多く、「他の店では対応してくれた」「ポイントをつけろ」「店長を出せ」といった要求がエスカレートするパターンが典型的です。
セルフレジやセルフサービスの普及に伴い、使い方がわからないことへの苛立ちがカスハラとして向けられるケースも増えています。
厚労省マニュアルの主なポイント
- 店舗入口または顧客向け告知物に「当店はカスハラを防止します」という方針を掲示する(顧客への抑止効果)
- クレーム対応の担当者は一人にさせず必ずペアで対応する
- 「対応限界時間」を設け、超えたら管理者が交代する
- 証拠保全のために防犯カメラの録画範囲と保存期間を確認する。
UAゼンセンのデータでは、ドラッグストアがカスハラ被害率56.7%と業種別トップです。
薬の在庫切れ・処方箋対応・ジェネリック医薬品の説明をめぐるトラブルが多く、薬剤師・登録販売者が専門的立場から対応しながらも、知識の非対称性を利用した圧力(「お前は薬剤師のくせに分からないのか」等)にさらされやすい環境があります。
飲食・宿泊|クレーム対応との線引きと初動フレーズ例
飲食・宿泊業のカスハラ(厚労省調査46.4%)は、食事の味・提供時間・予約トラブル・宿泊設備への不満がきっかけになるケースが多く、お酒が入った状態での暴言・暴力という特有のリスクも存在します。
クレームとカスハラの線引き
「料理の提供が30分以上かかっている」「頼んだ料理と違うものが来た」といった事実に基づく指摘は正当なクレームです。
一方、「なぜ待たせるんだ、あり得ない」と罵声を浴びせる、「無料にしろ」と根拠なく要求する、酔って他の客の前で怒鳴り続けるといった行為はカスハラに該当します。
初動フレーズの例
カスハラと判断した場合の初動フレーズをあらかじめ準備しておくことで、現場担当者が言葉に詰まるリスクを下げられます。以下はその例です。
「ご不満はよく分かりました。ただ、今のような言い方では私どもも十分にお話を伺うことができません。落ち着いてお話いただけますか」(暴言が出た場合の第一声)
「このままでは対応を続けることが難しい状況です。一度お時間をいただいて、担当の者と改めてご連絡差し上げることはできますか」(長時間拘束が続く場合の切り上げフレーズ)
「いただいたご要望については持ち帰り、上の者と確認してからご連絡します。本日その場でのご回答は難しい状況です」(無理な要求に即答しないためのフレーズ)
宿泊業では、深夜・早朝に発生するカスハラへの対応が特に負担が大きいため、フロント一人対応の時間帯を減らすシフト設計や、深夜帯の対応限界設定(「本日中のご対応は翌朝担当者が改めてご連絡します」)を方針化しておくことが重要です。
運輸・物流・配送(宅配業)|厚労省宅配業編マニュアルのポイント
宅配業のカスハラは、インターネット通販の急拡大に伴い深刻化が著しい分野です。2025年度、厚生労働省は「カスタマーハラスメント対策マニュアル(宅配業編)」を策定しました。配達員が現場で一人対応となる宅配業の特性に合わせた内容です。
宅配業特有のカスハラパターン
「時間通りに来なかった」「荷物が傷んでいた」「不在票を入れただけで帰った」といった配達に関するクレームが典型ですが、「玄関先に放置してほしい」「特定の場所に置いてほしい」などの要求が応じられなかった際に暴言・暴力に発展するケースも報告されています。
また、顧客の自宅での一対一の密室的な状況が、性的ハラスメントのリスクも高めています。
厚労省マニュアルの主なポイント
- ①配達員が一人で対応し続けることを防ぐため、一定時間経過後はセンターへの連絡・管理者対応への切り替えを義務づける
- ②ドライブレコーダーや配達時の音声・映像記録を活用した証拠保全
- ③悪質なカスハラ顧客への配達拒否手続きを会社として整備する(配達拒否は業務上の判断として認められる)。
配達員が単独で対応するという職務環境上、「その場で何とかしなければ」という心理的プレッシャーが特に高くなります。
「対応限界を超えたら即座にセンターに電話する」というルールを明文化し、それが実際に使いやすい雰囲気かどうかを管理者が定期的に確認する仕組みが必要です。
公務員・自治体職場|住民対応の特殊性と対応の実態
行政窓口・公務員職場でのカスハラは、民間のサービス業と異なる特有の困難を抱えています。自治労連の調査によると、公務公共職場でカスハラを受けた割合は約50%(71,191人回答、2024年9月〜2025年3月)に達しており(出典:自治労連)、被害規模は民間に引けを取りません。
行政窓口の特有の難しさ
第一に、「税金を払っているんだから対応して当然」という住民感情が、要求の正当化に使われやすい構造があります。第二に、許認可・給付金・生活保護などの行政処分を扱う部署では、処分への不満が担当者個人への攻撃に転じやすい環境があります。
第三に、法律に基づく回答しかできないという業務の制約が、顧客(住民)の期待と担当者の権限のギャップを生みやすい構造になっています。
公務職場に必要な対策
多くの自治体がカスハラ対応マニュアルを独自に策定しています。東京都・大阪市・横浜市などの先進自治体の事例を参照することで、自治体規模に合わせた対策の方向性が得られます。
対応の限界設定(1回の面談時間・連絡対応の終了基準)を上位管理職が明文化することが特に重要です。
公務員の場合、「住民の声を無限に受け止めることが仕事」という自己犠牲的な職業観が、カスハラ対応を一人で抱え込む構造を生みやすいため、管理職がこの認識を積極的に修正していくことが求められます。
カスハラ加害者にならないために|消費者として知っておくべきこと
カスハラは「被害者と加害者」の問題として語られがちですが、「誰もが加害者になりうる」という視点を持つことも重要です。
自分が正当なクレームのつもりで行動していても、相手の就業環境を害するほどのダメージを与えていれば、それはカスハラです。
このセクションでは、消費者・利用者として「やってはいけない行動の境界線」と、SNS投稿のリスク、健全なコミュニケーションのコツを解説します。
消費者・利用者として知っておくべき「やっていいこと・いけないこと」の境界線
消費者には、購入した商品・サービスに問題があった場合に適切な対応を求める正当な権利があります。しかし、その権利行使の方法が社会通念上の範囲を超えたとき、それはカスハラになります。
やっていいこと(正当な権利行使)
事実に基づいた不満や改善要望を伝えることは正当です。
「注文した内容と異なる商品が来た」「説明と実際のサービス内容が違った」「対応した担当者の言葉が不適切だった」といった具体的な事実を、落ち着いた口調で伝えることはクレームであり、企業側も誠実に対応すべきです。
また、事実に基づく不満をSNSや口コミサイトに書くことも、消費者の権利です。
やってはいけないこと(カスハラに当たりうる行動)
以下の行動は、意図の有無に関わらずカスハラに該当する可能性があります。
「大声で怒鳴る・暴言を使う」ーー感情が高ぶっていても、「バカ」「使えない」「死ね」といった言葉を使うことは侮辱罪に当たりえます。「言いたくなる気持ち」と「言っていい行為かどうか」は別の問題です。
「30分以上にわたって同じ要求を繰り返す」ーー同じ内容を繰り返し訴え続けることで業務を止める行為は、威力業務妨害になりうります。回答が出た後も納得できない場合は、消費生活センターや弁護士に相談するという選択肢があります。
「過大な謝罪・補償を要求する」ーー客観的な損害の範囲を超えた要求(担当者の解雇・土下座・事業所全体への謝罪文・損害と不釣り合いな金銭要求)は、強要罪や恐喝罪に当たりえます。
「担当者の個人情報を調べる・特定する」ーー担当者の氏名・住所・連絡先を調べてコンタクトする行為は、プライバシー侵害・ストーカー規制法違反・脅迫罪などの問題につながります。
SNS投稿で「カスハラ加害者」になるリスク
「正当な評価を世間に知らせたい」という気持ちでSNSや口コミに投稿する際にも、内容によっては法的リスクが生じます。
名誉毀損(刑法230条・民法709条):不特定多数が見られる状態で、特定の企業・個人の社会的評価を低下させる事実を公表した場合に成立しえます。たとえ内容が「事実」であっても、名誉毀損が成立することがあります(「事実の摘示による名誉毀損」)。
侮辱罪(刑法231条):事実を示さずに「あの店員は最悪」「クズな対応だった」など人格を否定する投稿は、侮辱罪に問われる可能性があります。2022年の刑法改正で法定刑が引き上げられており、刑事事件として立件されるケースも増えています。
業務妨害(威力業務妨害・偽計業務妨害):事実と異なる内容を投稿して企業の評判を意図的に毀損する場合(例:実際には起きていないことを「〜された」と投稿する)は、偽計業務妨害罪が成立しえます。
口コミやSNS投稿の際に意識すべき原則は、「書くのは事実のみ・感情的な誇張は避ける・特定の個人を中傷する内容は書かない」の3点です。
正当な消費者の声として伝わる投稿は、企業のサービス改善にも役立ちますが、感情的なフラストレーションの発散として書かれた投稿は自身の法的リスクを高めるだけです。
誰もが「いい顧客」でいられるためのコミュニケーションのコツ
良好な顧客対応を引き出すためのコミュニケーションは、消費者側にも実践できることがあります。
事実を整理してから伝える
「何が問題で、どうなってほしいか」を明確にしてから話すと、担当者も対応の方向性を立てやすくなります。「とにかく全部ダメ」という抽象的な不満より、「○○の部分が△△だったので、□□してほしい」という具体的な表現の方が解決が早まります。
担当者は「自分を困らせる敵」ではない
現場の担当者はほとんどの場合、問題の当事者ではなく、解決のために動こうとしている協力者です。「この人と一緒に問題を解決する」という意識でコミュニケーションを取ると、相手も最善を尽くしやすくなります。
解決しない場合は「上位の機関」に相談する
どうしても企業の対応に納得できない場合は、大声を上げて担当者を責め続けるより、消費生活センター(188番)・国民生活センター・業界の苦情窓口に相談する方が、正当な解決につながりやすくなります。
制度的な仕組みを使うことは、消費者としての正当な権利行使です。
よくある質問(FAQ)
Q1. カスハラは法律で禁止されていますか?
カスハラを直接禁止する単一の法律は、2026年3月現在まだ存在していません。ただし、カスハラを構成する個々の行為(暴言・脅迫・不退去・業務妨害等)は、刑法上の各犯罪(侮辱罪・脅迫罪・強要罪・恐喝罪・威力業務妨害罪・不退去罪など)に該当しうるものです。
また、2026年10月に施行される改正労働施策総合推進法により、企業に対してカスハラ防止措置が義務化されます。東京都・北海道・群馬県・桑名市ではすでに条例が施行されており、こうした自治体の管轄内では条例に基づく対応が求められています。
Q2. カスハラを受けたら警察に相談できますか?
はい、できます。カスハラ行為が脅迫・強要・暴行・器物損壊・不退去などの刑事事件に相当すると判断される場合は、警察への相談・被害届の提出が可能です。
「民事の問題だから警察は動けない」と思い込む必要はありません。特に「殺すぞ」「家族に何かする」などの生命への脅迫、身体への暴行、店舗からの退去拒否などは刑事事件として対応してもらえる可能性があります。
証拠(録音・メモ・映像)を持参して最寄りの警察署に相談することをお勧めします。
Q3. 会社がカスハラに対応してくれない場合、どうすればいいですか?
まず、社内の相談窓口や直属の上司の上位者(上司の上司・人事部門・経営層)に相談します。それでも対応が得られない場合は、外部の公的機関への相談が有効です。
都道府県労働局「総合労働相談コーナー」では、労使間のトラブルについて無料で相談を受け付けており、必要に応じて「あっせん」(第三者が仲介する話し合い)を利用することもできます。
会社が安全配慮義務(労働契約法第5条)を果たしていないと判断される場合、弁護士を通じた損害賠償請求も法的手段として存在します。一人で悩まず、外部機関を積極的に活用してください。
Q4. カスハラをした顧客を訴えることはできますか?
はい、可能です。民事上の手段としては、カスハラ行為によって生じた損害(治療費・休業損害・慰謝料等)について不法行為(民法709条)に基づく損害賠償請求ができます。
刑事上の手段としては、脅迫・強要・侮辱・名誉毀損等に該当する行為について、被害届の提出・告訴が可能です。ただし、刑事事件として立件されるかどうかは捜査機関の判断によります。
民事訴訟は弁護士への依頼が現実的で、弁護士費用は法テラスの立替制度を利用できる場合もあります。会社として組織的に対応する場合は、顧問弁護士に相談のうえ進めることが望ましいです。
Q5. カスハラ電話への対処法はありますか?
電話でのカスハラへの対応は以下の手順が有効です。
- 内容を記録しながら聞く(メモ・録音)
- 「ご要望については持ち帰って確認します」として即答を避ける
- 暴言が続く場合は「その言い方では対応が困難です」と一言告げて一旦保留・終話する権限を担当者に与える
- 同一人物から繰り返し連絡がある場合は「前回のご回答から変更はありません」と一言添えて終話する
- 悪質な脅迫電話は録音を保全して警察に相談する。電話対応の場合、担当者が一人で抱え込みやすいため、「一定時間経過後は必ず上位者に交代する」というルールの徹底が組織として不可欠です。
Q6. 2026年10月以降、法律に違反した場合はどうなりますか?
改正労働施策総合推進法では、企業がカスハラ防止措置を講じていない場合、厚生労働大臣による「助言・指導・勧告」の対象となります。さらに、勧告に従わない場合は企業名の公表が行われる可能性があります(パワーハラスメント防止法と同様の仕組み)。
直接的な罰金・罰則の規定はありませんが、企業名公表は採用・ブランド・取引先との関係に重大な影響を及ぼしえます。
また、措置義務を怠った状態でカスハラ被害による労災認定が出た場合、安全配慮義務違反として民事訴訟でより不利な立場に置かれるリスクが高まります。
まとめ|カスハラ対策で今すぐできること
カスハラは「感情的な顧客への個人的な対応」の問題ではありません。
労働者の精神的健康、企業の安全配慮義務、法律・条例の適用、そして2026年10月の全企業への措置義務化という、法的・経営的に重大な課題です。このページで解説してきた内容を踏まえ、企業と従業員それぞれが今すぐ取れる行動を整理します。
企業が今すぐ取るべき3つのアクション
アクション①:カスハラ防止方針を文書化し、経営トップが周知する
最初の一手として最も効果が高いのは、「当社はカスハラに対して組織として対応します」という方針を経営トップの名義で明文化し、全従業員に伝えることです。社内掲示・朝礼・社内メールなど、媒体は問いません。「会社が守ってくれる」というメッセージを従業員が受け取ることで、被害の早期報告が増え、一人での抱え込みが減ります。厚労省のひな形(無償公開)を活用すれば、文書化のコストを最小化できます。
アクション②:相談窓口(担当者と連絡先)を決め、全員に知らせる
「誰に・どうやって報告するか」を明確にするだけで、現場の対応速度は大幅に変わります。専任の担当者がいなくても、「カスハラを含む困りごとは○○(役職・氏名)に連絡する」「外部は社労士の◯◯事務所(電話番号)に相談できる」という情報を掲示するだけで機能します。匿名相談の仕組みも並行して設けると、報告へのハードルがさらに下がります。
アクション③:2026年10月に向けたロードマップを社内で共有する
STEP1(方針策定)→STEP2(マニュアル作成)→STEP3(研修実施)→STEP4〜6(運用整備)という流れを、「いつ・誰が・何を」するかのスケジュールに落とし込み、担当者を決めます。完璧を目指す必要はなく、「今月中に方針を文書化する」「来月中に担当者を研修に送る」という小さなアクションの積み重ねが、施行日までの準備完了につながります。
従業員が今すぐ取るべき3つのアクション
アクション①:「記録する」習慣を今日から始める
被害を受けた際に即座に記録できるよう、スマートフォンのボイスレコーダーアプリをすぐ起動できる位置に設定しておくことと、小さなメモ帳または業務日誌に「日時・相手・発言・自分の状態」を記録する習慣をつけることが、最も即効性のある自己防衛策です。
記録があれば、後から会社への報告・外部機関への相談・労災申請のいずれの場面でも根拠として使えます。
アクション②:「一人で抱え込まない」を自分のルールにする
カスハラを受けたとき、「自分の対応が悪かったのかも」「大げさだと思われたくない」という気持ちが報告を遅らせる最大の原因になります。
「カスハラかどうかの判断は自分がしなくていい。上司や窓口に報告することが自分の仕事」という意識に切り替えることが重要です。本記事のセルフチェックリストを使い、一つでも当てはまるものがあれば迷わず報告してください。
アクション③:外部相談窓口の連絡先を手元に控えておく
社内で相談しにくい場合や、社内で対応してもらえない場合のために、以下の連絡先を手元に控えておくことをお勧めします。
- 総合労働相談コーナー(労働局・労働基準監督署):全国無料・予約不要
- 法テラス:0570-078374(平日9時〜21時)
- こころの耳:0120-565-455(無料)
カスハラはあなたのせいではありません。法律と制度が整備され、社会全体でカスハラを「許容しない」方向に動いている今、その動きを味方につけながら、自分の権利と健康を守ってください。

